2022 晩夏 星空を撮る






アンドロメダ銀河 M31 を撮る -揖斐谷-


蒸し暑く、高い湿度に苦しんだこの夏
揖斐では例年なら梅雨が明けると国道のトンネルが一斉に乾く。気象庁の速報値としての梅雨明け発表よりも数段生活感覚に合致している。この夏はずっとトンネル内部は水浸しで、まるで豪雨の後のよう。これで梅雨明けはないよな、というのが生活実感

8月も終わろうという頃になって、突然トンネルが乾いた。雲は時折横切ったが、湿度が低いので結露もあまり見られなかった
東天を見上げると秋の天の川に寄り添うようにM31が肉眼で確認できた。久し振りに屈折望遠鏡を持ち出してM31を撮影した。画像には伴銀河M32とM110もはっきりと写っている

夜空は夏から秋へと変わろうとしていた。星空の主役は秋の星座だった。毎年のことながらM31を撮る頃には秋を感じる



2022年8月28日22時30分、揖斐谷
カメラ SONY α7M3(NORMAL)
鏡 筒 SD81S、SDフラットナーHD+レデューサーHD、625mm×0.79(F7.7→6.1)
赤道儀 SXD2、ノータッチガイド
ISO 6400、2192秒(36枚をダーク減算後加算コンポジット)










秋の天の川 -揖斐谷-


8月の終わりは夜が更けてくると秋の星空に出会える季節
画像の上には夏の星座を代表するはくちょう座の北十字がある。淡い秋の天の川を画面下にたどっていくと、カシオペヤ座に出会う。カシオペヤ座の右にはアンドロメダ銀河も顔を出している。カシオペヤ座のすぐ下にはペルセウス座の二重星団hχが見える

夏の空気が覆っているため、透明度は高くない。天候に恵まれなかったこの夏。初めての星空に出会えたと言ってもいいほど、久し振りだった。星を眺めるのに身体が慣れない。リハビリが必要なほどだ

それでも星は周り、季節も移り変わっていく



14mm、ISO640、f2.0、60秒×19枚、マニュアルWB、Raw、角型フィルター(StarSoft)使用、後処理としてダークノイズ減算後加算平均コンポジット、赤道儀で恒星追尾撮影


2022年8月28日22時29分 揖斐谷
SONY α7M4 + FE 14mm F1.8 GM
20











冬の星座 -揖斐谷-



8月のオリオンに出会いたくて遅くまで粘る。南からは雲が少しずつ広がってきた。あと少し、あと少し

東天から伸びる秋の天の川にはカシオペヤ座が、その南(右)にはアンドロメダ銀河
秋の天の川を東(下)へたどると山際にはぎょしゃ座の1等星カペラが明るく輝く。姿を現し始めたぎょしゃ座の南(右)にはおうし座が顔を出し始めた。山際からヒアデス星団とアルデバランが、その上にはプレアデス星団M45
いつもとどこか違うなぁとよく見ると、火星がプレアデス星団とアルデバランの間から顔を出していた。1等星アルデバランも赤く輝くが、火星の赤さには負ける。いい景色だ

8月のオリオンの出現まであとわずかだったが、無情にも夜空を雲が覆った

星座の同定にスマホをかざすことがよく行われている。確かに便利なのだが、自分の目で星座や恒星を見つけられたらその喜びは何にも代えがたい。夜空の環境がいいところではアンドロメダ銀河 M31 も肉眼で見える。たぶん北半球では、さんかく座銀河 M33 と並んで肉眼で見られる数少ない銀河である。南半球からは大マゼラン雲、小マゼラン雲が観望できるはず。もし私がこの眼で眼視観察できたら、どれだけ幸せだろう

自分の目で星空を親しむ喜びは、機械を通して観た星空よりもずっと感動する。私はそう思っている



20mm、ISO1600、f2.0、25秒、マニュアルWB、Raw、ケンコー PRO1D プロソフトン[A](W)、長秒時ノイズリダクションon、赤道儀で恒星追尾撮影


2022年8月29日00時24分 揖斐谷
SONY α7M3 + FE 20mm F1.8 G










【秋の夜長の四方山話】



ミハイル・ゴルバチョフ氏が死去した。その評価はさまざまかもしれないが、私の世代では「ペレストロイカ」「グラスノスチ」という言葉とともに、歴史が変わっていくという実感を感じさせた人物だった。

冒頭に氏を持ち出したのには訳がある。私が中学生のころ、考古学を指導していただいた人に今は亡き吉田幸平先生がある。先生はソビエト社会主義共和国連邦崩壊直前の1990年に訪ソしている。訪ソにはゴルバチョフ財団の招きがあったと聞いた。

先生は甲冑武具研究に始まり、白山信仰・修験道へと研究を広げ、民俗学・博物館学など多方面に精通していた。信じられないことに文学博士・哲学博士に加えて最後に神学博士を取得し、3つの博士号を得ていた。日本山岳修験学会へは天台宗大律師の肩書きで輪袈裟をまとって研究発表していた。
私の中学生時代は先生の自宅をよく訪ねて教えを乞うた。先生にはシベリア抑留経験がありロシア語に堪能だった。手元にある2001年10月21日の先生からの葉書には「ロシヤ人のコーラス27名をバスガイドで京都に行ってきました。まだ何とか元気です。(10/9)」とある。
抑留経験については幾度となく話を聞いたが、肝心なことは聞けなかったという心残りがある。金生山の虚空蔵菩薩信仰を鉄資源、さらには白山信仰とを結びつける視点は、先生からご教示を得たことでもあった。

中学生時代の私といえば、時には先生の助手としてテレビ局の迎えの車を待ち、先生のスタジオ入りに先立ってスタジオでADさんに甲冑武具の飾り付けを指導したこともあった。名古屋の放送局へ向かう途中に局担当者からご馳走になったが、何を注文してもいいよと言われても結局は食べ慣れたものしか答えられなかったことが悔しくて、妙に覚えている。

先生には3人の子があった。3人とも私と同じ中学校に同時期に在校していた。私より2つ上の長女、1つ上の次女、長男は同学年だった。あるとき次女が私をつかまえて「君はどういうつもりでお父さんと付き合っているの?悪いことはいわないから、付き合うのを直ちにやめなさい。あんな人の言うことを聞いていたらダメだよ」と忠告されたことがあった。訳は聞かなかったが、きっと家庭ではいろいろあるのだろうと思った。

先生は私が高校生の頃にアメリカに渡り、カリフォルニア大学、ニューヨーク州立大学他で教鞭をとられ、最後はニューヨーク州立大学副学長の職に就かれた。あるときアメリカから航空郵便が届いた。そこには「ボストン博物館で君の論文、著書を見ました。君の活躍に叩頭の念でいっぱいです。」とあり、ボストン博物館から購入希望があって納入の手続きしたことを思い出した。論文は学会誌に発表したもので、ボストン博物館が詳細に調べて文献収集していることに驚いた。

病により帰国されてからは、私が事務局を務めた「揖斐谷の自然と歴史と文化を語る集い」(揖斐谷ミニ学会)に毎年出席され、研究発表をされた。このシンポジウムは徳山村廃村まで4年間続いた「徳山村の自然と歴史と文化を語る集い(徳山村ミニ学会)」を受け継いだシンポジウムで、合わせて14年間開催した。
先生の口癖は「All Japan」だった。全国的な学会で第一線の研究者に対して研究発表し、後は学会誌に論文を発表する。大きな視野でやるべしと叱咤激励されたものだった。

ソビエト連邦崩壊直前の1990年に先生が訪ソしたという話を聞いた。帰国後の話では、モスクワで「良いところに案内する」と「接待」されたのがマクドナルド・モスクワ1号店だったそうだ。その時はできすぎた話のようだと思いながら聞いていた。マクドナルドの出店が大きな社会的意味を持っていたことを知ったのは、2022年5月にマクドナルドがロシアから撤退したという報道に接したときだった。
今のロシアは他界された先生の眼にはどのように写っているだろうか。

死去されて何年か過ぎた頃、先生から書籍小包が届いた。先生の著書だった。差出人の住所氏名は先生そのものだった。時間がとまった瞬間だった。先生の長女が発送の世話をされたようだった。
先生からは大学の教員・研究者への道を折に触れてすすめられた。力になるから俺に任せてみないか、と。しかし、私の調査研究は地域があり子どもたちがいてこそ意味のあるもので、研究室の中のアカデミズムとは違うと私は自分自身の研究者としての将来には無頓着だった。行政内研究者と呼ばれながらもそのことに自身でも違和感を感じていた。

ただいつのことだったか「君は写真がうまいなぁ」と先生に褒められて嬉しかったことを覚えている。フィルムカメラの時代で Nikon F2 フォトミックA、 Nikon F3 を2台態勢で使っていた頃の話だから、ずいぶん古い話だ。モノクロフィルムを現像し、引き伸ばした作品だった。
今の私は、先生にはどのように写っているのだろうか。いつか必ずやってくるその時、先生から話を聞けることを楽しみにしている。開口一番「All Japan でやってきたか!」と言われるだろうか。

秋の夜長はいろいろな想いが星と一緒に周ってくる。




20220915  (篠田通弘)